〈受難〉
●米原万里
読売新聞
97/5/11付

修道院育ちのフランチェス子は、在宅プログラマーとして、ひっそりと質素な生活をおくっている。
「彼女には男性をひきつけるものがまったく欠落していて」男たちは彼女がぞばにくるとやたら冷静な気分になって、「チンチンが懺悔しはじめる」。

当然三〇を過ぎた今も処女である彼女の膣に、ある日人面瘡が棲みついてしまった。「古賀さん」と彼女が名付けた、恐ろしく口がたっしゃで意地悪な人面瘡は日夜彼女を罵倒する。「おまえはヒツジにも劣る、蒟蒻にも劣る、南極2号にも劣る」……要するに女として無価値であると。かすかな自信まで還付泣きまでに叩きのめされながらも、彼女は贅沢を慎み神に感謝し、他人の幸せを自分の喜びとするけなげな生き方をつづける。だがこの奇妙な同棲は、彼女の日常に一種のハリと変化をもたらす……。

一ページ目から最後のピリオドまでケタケタと声をたてて笑わせ、同時にヒタヒタとしみいるような悲しみを味わわせてくれた小説だ。しかも奇想天外な(おとぎ話「蛙の王子」を彷彿とさせる)オチによって、なんだか身も心も洗われるような気がした。放送禁止用語とパロディが悪のりと思えるほど溢れかえる文面なのに、情報過多な現代における性愛の可能性とか、劣等感の本質とか、圧倒的な物量で押し寄せる消費文明を前にいかに魂の安静を保つかなんて、今時ダサイほど生真面目な問題をいつのまにか考えさせる手並みは空恐ろしいほど。

この著者の作品は、この一冊が初体験で、たちまちファンになりその著作を全部読みたくなった。そのすべてに共通するのは、目線の低さと視野の広さ、旺盛なサービス精神とす清々しい高潔さ。漫画、テレビ、AVなどのマス・カルチャーからいわゆる真面目な芸術、文学、聖書にいたるまで、幅広く驚くべき吸収力で蓄えた養分をもとに築き上げる虚構を通して著者が極めようとする一切の欺瞞を剥いだ真実、向こう見ずな率直さ。それが胸を打つ。
文藝春秋1333円


●斎藤美奈子
朝日新聞
97/4/23

「女は子宮で考える」などと口にする人はさすがに減ったが、女性作家をほめるのに「女性ならではの感性」ってな言葉をつかう人はまだ多い。これだって、女は理性ではなく感性で動く、という差別的なニュアンスを含んでいるのにね。さて、そんな彼らに評価させたら『軽いめまい』も、女性の感性にあふれた小説、にされてしまうだろう。しかしこの場合は「女性ならではの知性」というのが正しいのである
……(中略)……
知性のありようも書き手によっていろいろ。『受難』のフランチェス子(なんてえ名前だ!)は修道院で育ち、若い娘らしい欲望は一切持たず、恋愛の経験もない。あろうことがそんな彼女の陰部に人の顔そっくりの「できもの=人面瘡(そう)」ができる。彼女は彼(?)を古賀さんと呼び、二人(?)の奇態な同居生活がはじまる。

有名なマンガを下敷きにしたこの長編は、ドタバタ喜劇になりそうでならない。超倫理的な女主人公と超偽悪的な古賀さんとのやりとりが、妙に覚めているせいかも。意表をつく結末には、思わず笑いころげるはず。『語る女たちの時代』は、
……(中略)……


●村上貴史
オール讀物
97年6月号

援助交際や売春など、性を巡る話題のつきない昨今だが、そうした言葉のまやかしに包まれない剥き出しの性を、極めて特異な女性を主役として描いたのが本書だ。フランチェス子の左腕に出来た人面瘡は、やがて、彼女の性器せと移動した。寄生する場所は変わっても、彼女が「古賀さん」と呼ぶその男性人面瘡は相変わらず彼女を罵りつづける。ダメ女と…。
ハイミスにして処女のフランチェス子は、古賀さんとの共同生活を続けていくなかで、いつしか自分がダメ女であり、男から女として認識されない存在であることを当然とおもうようになる。彼女は在宅のフログラマーとして働いていたが、ある日、ふとしたきっかけで自宅をラブホテル代わりに友人にて提供するサービスを始めた。この商売が人気を呼び、客が次々と増えていく。かくしてフランチェス子の孤独な生活は一変することになったのだが…。

本書の主役であるフランチェス子、男からは性欲の対象として見られない。それ故にに性器に人面瘡を飼っていても何の差し障りもない女である。彼女は、男のみならずバイブまで不能にする特殊能力を備えているし、さらに、愛や性をオブラートにくるんで表現することもできない。そういう徹底的にセックスとは無縁なフランチェス子と「女は男の欲望をかき立ててこそ一人前」と主張する古賀さんとの「自問自答」を通じて、著者は、愛やセックスとは何かという問いを、真正面からと句者に投げかけているのだ。

しかしながらとの問いかけは権威的ではなくさらりとしたユーモアに包まれており、読者をクスリと笑わせてくれる。肩肘貼るのではなく、かろやかに愛と性をかたってみせるところが、姫野のしなやかさであり、したたかさである。

著者は、たとえば『レンタル』では高齢処女の性を描き、『バカさゆえ…』では漫画のパロディを通じてむき出しの性を戯的に排除しており、そうすることで従来描いてきた愛や性を、より純粋な形で表現することに成功している。あなたも本書のピュアな性愛を読み、自分の性と愛ととに関する考え方につい手歩血度みつめなおしてみてはいかがだろうか。またあらたな自分が見つかるかもしれない。
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