ああ正妻
集英社
●小説すばる 07・5月号
話題の新刊『ああ正妻』を読む
天野周一(全国亭主関白協会会長)
vs 菅聡子(お茶の水女子大教授)
この本はやがて亭主族のバイブルとなる(天野)
いとしいあなたは今どこに(菅)


◎天野周一(全国亭主関白協会会長)

いかに上手に妻の尻に敷かれるか、いかに妻を愛するか。このことを八年間に渡って研究してきた。そしてたどり着いたのが、「非勝三原則」であった。全国亭主関白協会の奥義であり、夫婦ゲンカに際しての亭主の心構えだ。妻には、「勝たない、勝てない、勝ちたくない」である。争わないこと、これが真の勇者で、真の勝利者なのだ。長い歳月を要したが、出た結論は、ただの負け惜しみという説もある。

『ああ正妻』の主人公、小早川氏が全亭協に入会していれば、若くして相当の高段位者とにらんでいる。彼の妻、雪穂さんは、私の愛妻と瓜ふたつで、とんでもない悪妻のように思われる向きもあろうが、それは誤解である。妻ほど可愛い生き物がいるだろうか、機嫌のいい時は……。
全亭協に入会している三千余人の会員の奥様は大なり小なり雪穂的性格で、会員は辛い、いや「幸せ」な毎日を送っている。辛いと幸せの文字があまりにも似ているので筆が足りなかった。
この本を読み進むうちに、小早川氏に同化しすぎて、思わず首をすくめたり、居住まいを正したりと、体が前後左右に揺れることになる。つまり、日本初の3D小説といっても過言ではない。何十回と笑う場面に遭遇するが、大声は慎もう。愛妻に誤解されるおそれがある。
最後に我慢に我慢を重ねた小早川が雪穂に反撃を決意するくだりは、手に汗を握るが、あまりに怖ろしく、しかも、面白すぎて、ここには書けない。

さて、二〇〇七年問題の熟年離婚に戦々恐々としている団塊の世代は勿論のこと、これから結婚しようとする独身男性は必読であることを断言しておく。『ああ正妻』を読まずして女を、そして妻を語るべからず、である。全亭協の会員にはメールを打った。「この本は、やがて亭主族のバイブルとなる」と。

その昔、久米宏がニュースステーションの司会をしていた頃、「最後の晩餐は誰と何を食べたいですか」というコーナーがあった。様々なゲストが含蓄のある回答をして、面白かった。私なら「妻と、妻が一番得意だった、肉ジャガを食べて最後の日を迎えたい」と答えるだろう。

静かに食べ終わって、ずーっと我慢してきたセリフをおもむろに言わせて頂く。「いつもありがとう。だが、この肉ジャガは、私の知っている肉ジャガと全く違っていたよ。少し、パサパサしていないかネ」。想像するだけで怖いが、最後の晩餐ならヘのカッパだっ。あとはこの書評を愛妻が読まないことを祈るだけである。



◎菅 聡子(お茶の水女子大学教授)
かの『負け犬の遠吠え』(酒井順子著、講談社、二〇〇三)が残した最大の弊害は、勝ち犬/負け犬という女性を二分する言葉を「世間」に与えてしまったことだ。女性を「産む機械」としてしか認識できない某政治家のような、石頭でワカラズヤのオヤジたちを、「負け犬」なる呼称は欣喜雀躍させた。「ユリイカ!」と叫んで風呂を飛び出したオヤジたちは数知れない(たぶん)。

本書『ああ正妻』は、「負け犬」ブームに「純愛」ブーム、「パラサイト・シングル」や「格差社会」といった近年の日本の文化現象を巧みに織り交ぜながら、ユーモアとパロディの言葉によって現代日本をとらえた批評的小説である。

加えて、その批評性は姫野の自作にも向けられており、その意味で、メタフィクションとしての側面も持つ。

と言ってしまえば、いかにも教科書通りの「書評」ができあがるが、「負け犬」たることでは人後に落ちないと自負する私が、この本を読んでもっとも共感を覚えたのは、被害者・小早川でも観察者かつ「負け犬」代表の瓶野比織子でもなく、恐怖の「勝ち犬」雪穂の方である。
「これはすみからすみまで、ほんとうにあった話です」との「プロローグ」から始まる『ああ正妻』は、小早川の妻・雪穂の恐怖の生態? をめぐる物語だが、しかしそれは、小早川を中心とする、複数の人々の証言を再構成する形で語られている。
他人から与えられたデータのみを根拠に、雪穂を外面から分析する川田教授の言説はその極北だ。どうして誰も、直接雪穂に問いかけてくれないのか。「どうして小早川と結婚したかったのですか」と。彼女は答えるかもしれない。「だって彼が大好きだったから」。

「真っ赤なバラと白いパンジー、部屋には暖炉、暖炉の横ではレースを編まねばならない」「雪穂がうたうのはいつもおなじ。わたしの横にはあなた、あなた、あなたがいてほしい」。
けれど、この歌が語っているのは「いとしいあなた」の不在、喪失なのだ。小早川は「結婚前から現在に至るまであの人を、性欲の対象として見たことはあっても、愛情を感じたことが一度もないことに気づいたのです」と明言している。
世の「負け犬」たちは代弁者を得た。放っておいてもジェンダー研究者たちが味方をしてくれる。しかし、「勝ち犬」は孤独だ。『ああ正妻』は、「いとしいあなた」だけを手に入れられない、「勝ち犬」の涙の物語なのかもしれない。

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