〈整形美女〉
●山形孝夫
宮城学院女子大学教授・宗教人類学
新潮社「波」
99年1月号
 「荒野に夢中」

姫野カオルコさんの最新作『整形美女』を読んだ。タイトルどおり、整形美容を題材にした作品だが、ストーリーの背後には旧約聖書のおそろしくシーリアスなカインとアベルの物語が暗号のように埋め込まれている。

登場人物の繭村甲斐子、望月安倍子は、カインとアベルの分身であり、整形外科の老医師大曽根三カ衛は、天使ミカエル(注・加藤りぬ、は列聖カトリーヌ)に違いない。

物語は、整形美容術の、どのようにも変身できる幻惑的なテクノロジーのディテールについて語りながら、やがてしだいに、男性社会が女性にたいして突きつける紋切り方の美意識に凌辱され、心にトラウマをかかえて生きねばならない若い女性の葛藤の、やり切れない内面にまで、読者をひきこんでゆく。

『整形美女』は、そうした虚構と現実の境界に生きるふたりの若い女性を描いている。

ところで聖書のカインとアベルとは、どのような物語であったか。カインとアベルは、エデンの楽園を追放されたアダムとイヴの息子たちである。このふたりの兄弟が、優劣を競って激しく争い合うなかで惨劇は起きた。敗北した農耕者カインが、羊飼いのアベルを殺害してしまうのだ。神は、カインを断罪し、不毛の荒野へ追放する。カインは、荒野をさまようものとなる……。

小説『整形美女』の最終章はまさに荒野である。作者は、甲斐子の物語の結末を、カインの運命とぴったり重ねている。甲斐子は眉間に深い縦皺をよせながら、悲しみの荒野を歩いていく。しかし不思議なことに、その後ろ姿は罪におののくカインのようではなく、なぜか颯爽と風邪を切るよにさえみえるのだ。作者はそれを昆虫標本の表記のように「荒野に夢中」と書いている。

いったい、この相違はどこからくるのだろうか。

ひとりの読者としては、この不思議に奇妙にひかれた。そして作者が、きわどい仕方で、ラストの惨劇を回避していることに気がつき、愕然としたのだった。

甲斐子が安倍子を追いつめる場面は、再三ならずあった。甲斐子がまなじりを決し、安倍子の襟を掴んで締め上げるシーン……。甲斐子の目は、獲物を狙うもののように、らんらんと輝いていた……。

作者は、なぜ惨劇を避けたのか。その謎を解読することは、読者から、小説の醍醐味を味わう幸福を奪い去ることになりかねない。それはまた、カインとアベルの物語に隠された古代イスラエル人の知の秘密をうっかりかすめとることにもなりそうだ。深入りしないことにする。

先にも触れたが、甲斐子と安倍子は、カインとアベルの分身である。それにしても、彼女たちの「美しさ」への競争の、まるでアクロバットのような変身願望は、いったいどこからくるのだろうか。

ふたりは、美と醜の、あいまいな境界を、まるで犠牲獣のように傷を負い、苦しみながら生きている。美とは何か。醜とは何か。この議論が、小説の大半の分量を占めているのは、この作者のねらいが、そのあいまいなセクシュアリティの境界を切り裂くことにあったからに違いない。

たしかに小説には惨劇はない。甲斐子も安倍子も、その限り、それぞれめでたく結婚し、(注・あるいは商売が成功し)、そこがエデンの東の荒野であることなど、とんと忘れてしまったかのように暮らしている。

しかし、忘れてはいけない。そこはエデンの東、セクシャリティという名の欲望の吹き荒れる荒野なのである。

このように各と、読者は主題の重さにひるみそうになるのだが、そこを作者は、お洒落なダジャレで駆け抜ける。そしてふと気がつくと、なぜか近頃日常化しつつある整形美容の非日常性が、まるでホラーのようにたちあらわれてくる。その巧妙な仕掛け、おかしさと深刻さ。

最後に、整形外科医大曽根の存在は絶妙だ。まるで天使のようだと書いたが、この曖昧な境界に、身をさらして生きねばならない甲斐子の運命を、冷めてはいるが、どこか温かな、そして悲しそうな目で、いつもじっと見つめている。そのような希有な存在だからである。


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