〈レンタル不倫〉
角川文庫
●鹿島茂
雑誌『文藝春秋』
2001・5月号

エロスの図書館34
「大阪万博で男女が逆転した」

セックスをテーマにして、読者を大笑いさせ、しかるのちに哀切な余韻を残す。

イヴィン・ウォーのイギリスならまだしも、ストレートに不幸の実況中継をすることがなによりも受ける日本的風土で、これは最も困難な試みであり、もし成功すれば、それは、奇跡に近い。

姫野カオルコ『レンタル(不倫)』(角川文庫552円)は、この不可能な超絶技に挑戦した果敢な小説である。

力石理気子(りきいし・りきこ)は派手な外観にもかかわらず、まったく男が寄りつかない34才の高齢処女。

その職業はというと、これがSM系のポルノ作家なのである。19世紀のフランスで『ヴィーナス氏』という変態小説を書いた処女作家ラシルドを思わせるこの設定がおもしろい。

力石理気子は「剃毛」「肛門」「お仕置き」「ひくひくと」「むっちり」「見ないで」などという言葉の順列組合せによって日々の糧を得ているが、切実に実体験を願っているにもかかわらず、一度もその機会が訪れたことはない。

男友達はいても、「あたはだいじな友人です。性差を超えて」と友情のエールを送られるだけである。

「『前よりケツがでかくなったぜ。あぶらがのった。男の味をおぼえたせいだな。/いや、恥ずかしい。じっとお尻を見るのはやめて…」こんなふうなことも、ずいぶんと書いたけれど、ほんとうにこんなことがあるのかどうか、私にはわからない。私はセックスをしたことがない。そもそも『男の味』というのはどういったものなのであろう。辛いのか甘いのか酸いのか」

身の上相談で、男とずるずるした不倫関係を続けていることを悩む読者の手紙を読むと、ついこんな回答ならぬ質問を発したくなる。

「名古屋市のU.Oさん、どうしたらずるずるヤッてもらえるんでしょうか。ずるずるどころか、まず初回はどのように事を運べば行為に至るのでしょうか」

小説の設定では、理気子に男が寄りつかないのは、アナクロな祖父から武道と大東亜共栄圏的精神をたたき込まれ、男の子のように育てられたためということになっているが、これは、読者を納得させる「口実」に過ぎない。

理気子が「ヤッてもらえない」真の理由、それは、世間一般で流布している恋愛神話、ボーイ・ミーツ・ガール式の恋愛があって、しかるのちにセックスが来るという神話を信ずるだけの通俗性を欠いているためである。

理気子は、つねづね、恋はいらない、セックスがほしいとだけ思っているのである。理気子の理想の男性は「コンセプトが武田久美子みたいな男」つまり「モ×モウに近くて、本を読まなくて、毛深くて……」ようするに、いきなり飛びかかってきそうな動物のような男なのだ。

そんな理気子の前に二人の男が現れる。

一人は理想のタイプで、パーティでいきなり「よう、いいケツしてるじゃん」と声をかけてきた190センチの野獣。その名がなんと澁澤龍彦。理気子はこの野獣にしびれ、「なに、こいつ。なんてかっこいいこと言うの」と感じるが、なぜか、体が拒否してしまう。

もう一人は理想とは対極のタイプで、文節ごとに「フ」と息を洩らし、おふらんすな言葉を並べて恋愛から入らなければ気がすまない美男子、霞雅樹。

霞は「おそらく、あのときふたりが出会えたのは、もはや世界のなかにある三次元の空間ではなく、さながら時空を超越したテクスチュアのようであるとするな らば、たがいにもとめあうふたつの意思はよびあうものだという……」と、「。」で切れずに「、」が永遠に続く、どこかで聞いたような言葉で理気子を口説く。

これに対して、理気子は(つまりセックスしてくださるのですね)と、心の中で20字以内で要約してしまう。

小説のコミックはこの逆転にある。

ただ、ヤリたくて、手間暇かけたくないのが女の理気子で、ただヤルということに妙な罪悪感を感じて、恋愛というわけのわからないものでそれを覆い隠そうとするのが男の霞。

最後、めでたく処女を失い、なんでもいいから回数を重ねて、早く「ずるずるとした関係」に入りたいと思っている理気子に、霞がいう「ぼくはきみのなんなんだ」。

理気子はトホホな気持ちで考える。

「『週刊文秋』出してる会社の出版物に高齢処女と書かれてほそぼそと売文してきた女に、世に言う『妻子ある男性』が質問しないでおくれよ(中略)

(うるさいっ。バイブが悩むな!)
こう言ってのけられたら、どんなに世界は理路整然とするだろう。
だがボンジュール・トリステス、まぶたを閉じる。
『私は……レンタルでじゅうぶんなの』」

興味深いのは、語り手が、この男女の倒立現象を「大阪万博以前的」と「以後的」というエートスの二分法で説明している点である。

いわく、大阪万博まで日本人はいかに時間を省くかを競ってきた。セックスもしかり。とりわけ男はそうだった。だが女はちがった。女は時間の節約に反発し、反対の時間の使い方を子供に託した。この母親のエートスが膣の内部でふしぎな伝わり方をした。

「膣は出産器官でもあるがセックスの器官でもある。その器官から出てきた同性よりも異性のほうが、膣の持ち主の意識を享受しやすいのではないか。同極反発がない。娘たちは成長とともに母に対抗する。時間を省こうと。かたや息子たちは成長とともに、いかに時間をかせぐかに夢中になる。(中略)

今までの私の男女交際の失敗は、ターゲットが元・万博少年であることをすっかり忘れて、時間を省こう省こうとする産業革命的父親的態度にあったのだ、きっと」

分析、お見事! こうした逆転した男女の関係は今後ますます増えていくのではないか。

ゆえに、これは女性の手になる新しい性愛小説の嚆矢として長く記憶さるべき作品なのである。
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