〈ツ、イ、ラ、ク〉
角川書店
●推薦文
(田辺聖子)

この小説の真の主人公は〈青春〉である。
青春のたけだけしい残酷さと、きらめきと、悲しみ。
ヒロイン隼子の魅力と存在感は圧倒的である。
現代の日本文学は新しい才能を得て、美しき野趣にみちた〈青春小説〉を得た。

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●週刊朝日
(04・12/19号)
「本の隙間」
(評者=齋藤美奈子)

〃一度読んだら癖になる〃

この欄のタイトルにかこつけていうと、姫野カオルコはまさに「本棚の隙間」的な作家である。熱狂的なファンがついているのと裏腹に、文壇的にはいまいちメジャーになりきれない。

まず、この女のコっぽい名前が誤解を招くんですね。「姫野カオルコ? それはバレリーナの絵が得意なイラストレーターですか?」みたいなイメージ。なので、みなさま素通りする。

それと本の売り出し方も、なんかちがうんですよねえ。新刊書『ツ、イ、ラ、ク』の帯にはこう書いてある。〈忘れられなかった。どんなに忘れようとしても、ずっと〉

もっとよく読むと〈すべての人の記憶に眠る、官能の目覚め。狂おしいまでの恋の痛み、恋の歓び〉とも書いてあり、その横には〈今年度最高の恋愛文学〉とあり、背表紙のキャッチコピーが〈一生に一度の、真実の恋〉で、裏表紙にまわるとさらにダメ押しで〈苦しかった。切なかった。ほんとうに、ほんとうに、愛していた〉。

角川書店は姫野カオルコの営業妨害をしてんじゃないかとさえ思う。
だってこれだけ愛だ恋だといわれたらですよ、「世界の中心で愛がどーしたとかいうのと同じたぐいの小説ですか」と思うでしょう、知らなければ。「ワシには一生関係のない本じゃ」と判断するでしょう、心ある読者なら。

と、こ、ろ、が。「ワシには一生関係のない本じゃ」と思ったあなた。あなたこそ、じつは姫野カオルコにもっとも相応しい読者なのである。

『ツ、イ、ラ、ク』は彼女の四年ぶりの長編小説である。そしてバリバリの恋愛小説だ。しかし、姫野カオルコが「ふつーの恋愛小説」を書くわけがないのであって(ということを彼女の読者はみな知っていて、だからカバーのキャッチコピーは一種のパロディと考えることもできる)、この本も彼女らしさにあふれた快作だった。

物語の概要を一応いっとくと、舞台は西日本のとある田舎町。同じ町で育ち、同じ小学校に通い、同じ中学校に進んだ十人ほどの少年少女が登場する。

恋愛小説といったけれども、これは「中学生日記」のような学校の群衆劇でもあって、「一組のだれだれどう思う?」みたいなところから話ははじまり、いつしか「高校教師」もかくやのレベルにまで物語は発展するのだ。

ただし「中学生日記」でも「高校教師」とも当然それはちがっているわけで、姫野カオルコの姫野カオルコらしさはこんなところにあらわれる。
〈もしかしたら何人かの男は、女が初潮を境に急に変化すると思っているのかもしれない。(略)だが体験してわかる。月経とはただ毎月出血するだけで、ブラジャーはたんに衣類だと〉

あるいはこんなところにも。
〈若き日の重要な時期に、天才詩人の兄からの流用を聞き、学んだ者は幸いである。出所がどこであろうと、詩人の発言は正しい。コンドームもできないペニスは発泡スチロール以下の屑ペニスである。言うたれ言うたれ、塔仁原! きみの発言はインターナショナルに全時代に通じるものだ!(略)きみの発言にはヘンリー・ミラーもアーサー・ミラーもグレン・ミラーも土下座する〉

そしてこんなところにも。
〈中学生がスパイスがわりの浮気などいかがなものかと顰蹙するのは死を控えた動物だけで、十代とは四六時中性欲があふれているホモサピエンスなのである。性欲という言い方におためごかしな花柄カバーをつけてほしいなら「恋に恋する」とでもしておく〉

おお、そうだった。思春期って本当にこうだった、と感傷的な気分に浸るも、次の瞬間、ひと言多い語り手が文にしゃしゃり出てきて読者を現実に引き戻す。それが快感。

ロマンチストがリアリストかといえば彼女はリアリストである。いや、その極北かもしれない。そういう本は百万部は売れない。そのかわり、小説が好きで批評も好きな人ならきっとハマる。姫野カオルコは癖になるのだ。
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